その昔、中国の寒村に、たった一人の医師として奮闘していた十八歳の少女がいた。
小学校の教師を務める建英に頼まれて、李宝珠が国語の時間に発音を教える手伝いを始めたのは半月ほど前。今日は6年生の授業だが、教室に入ると欠席が多く驚き、「張小紅も来てないの?」と宝珠は建英に聞いた。いつも明るい笑顔で人気者の小紅はクラスの最年長で15歳。小紅がいないクラスは静かだった。
「実はね――」
建英は急に声をひそめた。
「みんな、肺病でね…。彼女の住んでいる地域で肺病がはやっているみたいなの。小紅のいとこの小強も肺病だし…。ほかのお休みしている子供たちも、同じ病気よ。結核菌が健康な子にもうつると大変だから、みんなお休みさせたの」
「えっ、それは大変じゃない!でも私の医院には来てないわ。肺病って、伝染性が強いのよ。みんなちゃんと分かっているのかしら…」
「私もそれが心配なの。お箸やお茶わんをみんなで使いまわししている家がほとんどだし、同じ部屋で寝起きしているところも多いでしょ?どんどん結核菌が広がっていくんじゃないかって思えて」
「その可能性があるわね。分かった、私ちょっと今から様子を見に行って来るわ」
※ ※ ※
迷いに迷って宝珠が小紅の家に着いたのは、太陽がやや西に傾いた頃だった。土の塊を積み上げて作られた家は小さく、住み心地がよいとはとても言えない。その家の前の庭で、咳き込みながら大きな包丁で豚のエサ用の野菜くずを一心不乱に切っている少女が、小紅だった。北風が吹く寒い季節だというのに、着ているのはボロボロのセーター1枚きり。足は裸足のままだった。小紅のかさついたほっぺたには、いつも小学校の教室で見るエクボはない。
「小紅、具合はどう?家の中で休んでなくていいの?」
そっと宝珠が声をかけると、驚いたように顔を上げた。顔が全体的に赤っぽい。宝珠は脈と舌を診て、聴診器を胸にあてた。風邪とはまったく異なる、ゴンゴンといった肺に反響するような音が聞こえる。
「あなた、安静にしてなきゃ治らないわ。病気がよくなる注射を打ってあげるから、家の中に入ってお休みなさい」
「でも、これをやらないと叱られるの」
宝珠は小紅を部屋に戻し、変わりに野菜を切り始めた。少しの時間だったが、夢中で切っているうちに野菜くずで小さな山が出来た。手伝いを終えた宝珠は家の中に入った。
そこには、小紅と同じようにゴンゴンと激しく咳き込む寝たきりの祖母と、その傍らで看病をする母親がいた。部屋の隅では生まれて数カ月ほどの赤ん坊が泣いている。
「宝珠先生、一体どうなさったんですか?」
小紅が戻ってきたことも不審に思っていた母親が驚いて立ち上がった。
「お母さん、小紅も肺病ですよ。今見た感じでは、おばあちゃんも肺病だと思います。この病気は伝染性が強いんです。ちゃんと治療をしないと、村中に広がってしまうかもしれない…。とにかく、おばあちゃんや子供たちには今から注射を打ちますね」
「すみません……。今のような状態を続けていちゃダメなのは分かっているんですが、医院までは1時間半もかかりますし、とてもおばあちゃんを連れて行く時間がないんですよ。もう1年も前からおばあちゃん、こんなひどい咳をしているんです…。小紅もおんなじ症状で、なんとかしなきゃって思ってたんですよ…。でもねえ、ウチは父親が早くに亡くなっているんで、私1人で飼っているブタの世話も農作業も子供たちの世話もやらなきゃいけないんです。小紅の手伝いがないととてもやっていけない状態ですし…。」
母親の愚痴を聞きながら宝珠は手早くカバンからストレプトマイシン(肺病に効く抗生物質)を取り出し、宝珠は小紅、そして苦しげな息をする祖母と、順番に注射を打った。
「これから私が毎日注射を打ちに来ます。小紅の代わりにブタのエサ作りも農作業も手伝います。だから安心して。おばあちゃんも小紅も、安静にしていたら絶対に良くなるから!それまで一緒にがんばりましょう」
※ ※ ※
小紅の家を出たその足で、宝珠は村全体を取り仕切る党支部書記の楊書記の所に向かった。畑のあぜ道には電灯などない。あと数十分で暗闇が訪れるだろうという時間だったが、宝珠は何としても今日中に楊書記と村全体の結核への対策を講じたかった。
「やあ、宝珠。こんな時間にどうした?」
勢い込んで話そうとする宝珠をなだめるように、穏やかな声で楊書記が答えた。息を整えながら宝珠は、結核が流行しているということ、感染を防ぐにはまず結核にかかっている患者がきっちりした治療を受けなければならないこと、患者の寝起きする部屋は家族とは別にすること、それが無理でも茶わんや箸などは共有しないことを、順序だてて訴えた。
「だけどね宝珠、それをやろうとすると君は大きなリスクを背負うことになるよ」
「リスクって何ですか?」
「結核は不治の病と思っている人が村人には多い。それを治療をしたら結核が治せるから医院に来なさいなんて言ってごらん。うまく治ればいいが、治らないで死人なんかが出たりしたら、やっぱり医院なんて当てにならないと君の評判を落とすことになる」
「それでもいいんです。私は成功する自信があります。万が一失敗する可能性があったとしても、評判が落ちるのが嫌だからって感染が広がるのを黙って見ているわけにはいきません。お願い、楊さんの力を貸して下さい」
話し合いは深夜まで延々と続いた。「もし楊さんが理解を示してくれなければ、私1人でできる方法を考えるしかない」と宝珠が思い始めた時だった。
「宝珠には負けたよ。あんたを小娘のくせにと思う時もあったが、正真正銘の医者だよ。早速明日の朝、地域細長を全員集めよう。結核の治療なんて…っていうような奴がいるかもしれないが、私がちゃんと理解させてみせる。宝珠は安心して、十分な治療をすることだけを考えていなさい」
楊書記の目には、まるで娘を見るような温かさがあった。
※ ※ ※
それからの3ヵ月間を思い出すと、宝珠はまるで映画の早送りを見ていたような気分になる。楊書記を説得した日の翌日、宝珠は30キロ先の都市、チョンライ(※)へ往復に丸一日かけて出かけていった。結核の治療薬、ストレプトマイシンを大量に購入するためだ。楊書記が集めた地域細長の呼びかけは絶大で、チョンライから戻ってきたその日から患者がくるようになり、そのうち「あの注射は効く」という評判が広まって、数週間後には結核の治療を求めてやってくる患者で外に行列ができた。
小紅の家には、早朝、あるいは夕方遅く、片道1時間半かけて治療に向かう。3カ月で診た患者は、自分の村ととなり村の住民あわせて100人を超え、食事の時間もろくに取れないような状態だった。ようやくホッと一息つけるようになった時には、寒い冬が終わろうとしていた。
「こんな言い方ちょっと大げさかもしれないけど、結核から村を守ることができたのは宝珠のお陰だね。死んじゃう人は1人もいなかったし、小紅だって、ホラ、あんなに元気になった!」
建英が指差す先には、クッキリとしたエクボを浮かべて嬉しそうに笑う小紅がいた。
「どんな病気からも村を守れる、強い医者にならなきゃ」
宝珠は小紅に向かって大きく手を振った。
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