その昔、中国の寒村に、たった一人の医師として奮闘していた十八歳の少女がいた。
「どうして全然よくならないの……」
やせた呂仁の背中を見送りながら、李宝珠は泣きそうな気持ちでそう思った。肺病の治療に走り回った3カ月が過ぎ、診療所を訪れる患者はグッと減った。治療に使ったストレプトマイシンは劇的な効き目を発揮し、多くの村人を肺病から救ったが、その例外が呂仁だった。
毎日注射を打っているが、一向によくならない。体重は落ちる一方で、骨と皮だけといっても過言ではないほどだ。診療所の往き帰りに吐血することも多く、地面には血の跡がついている。それを見るたび、宝珠はどうすれば呂仁を助けることができるのか胸を痛めるのだった。
※ ※ ※
悩む宝珠を見兼ねたのか、診療所の隣の家に住む養蜂業者趙福が、その日は珍しく自分から患者の話題を持ち出した。
「宝珠先生、例の肺病の患者さんの具合はどうだったね?」
「それがね、薬が全然効かなくって――」
養蜂業者は、花の蜜を求めて数カ月ごとに南から北の地方へと順に移動している。菜の花が咲き始めた1カ月ほど前から宝珠の村にも何組もの養蜂業者がやって来た。趙福もそのひとり。宝珠は治療が終わると隣の家に寄り、作業を手伝いながら、趙福が見てきたほかの地方の話を聞いたり、患者のこと、治療のことなどを話すのが習慣になっていた。白髪頭で穏やかな目をした趙福に、宝珠はまるで祖父と話しているような安心感を覚え、普段は言わないことまでスルスルと話せたのだ。
「ストレプトマイシンが効かないとなると、もうどうすればいいか分からなくて。
こんなとき相談できる先生がいればいいんだけど、そういう人もいないし……」
「そういうことなら、いいものをあげよう。宝珠先生にはお世話になっているからね」
「いいもの?」
黙ってうなずく趙福に、宝珠はたずねた。
「ロイヤルゼリー? 体にいいとは聞くけど」
「それじゃ、あなたの患者さんは治らないよ」
「じゃあ何?」
「蜂の子だよ」
――ストレプトマイシンでも無理なのに、そんなもので本当に呂仁さんの肺病が治るのかしら?
宝珠のけげんな顔に、趙福はニコニコ笑いながら言った。
「蜂の子っていっても、普通の蜂の子じゃない。オスの蜂の子なんだ」
「オスとメスで効果が違うの?」
「全然違う。オスは非常に貴重なものでね、しかも生後21日目のものじゃないと効き目は薄い。
これはね、先祖代々伝わっている秘薬なんだよ。 蜂の子だけは人に売ったりしてはいけない、
家族が使う薬なんだから、と昔からずっと言い伝えられているんだ。」
趙福が差し出したのは、白いサナギのような生きた蜂の子だった。ムニョムニョと動くそれを、促されるままに宝珠は1つ手に取り、口に入れた。瞬間、舌の上でトローッと溶けた。
「甘い!」
我を忘れて、宝珠は次から次へと口に入れた。食事といえば茶碗に盛ったお米だけ、肉や魚といった動物性の食品を1年以上食べていない宝珠にとって、蜂の子はえもいわれぬおいしいものだったのだ。
※ ※ ※
次の日、宝珠は早速呂仁に蜂の子を紙に包んで渡した。
「呂仁さんの病気に効くと思う。ぜひ毎日食べてみて」
翌日、翌々日は、呂仁に目立った変化はなかった。
――本当の薬じゃないし、やっぱり駄目なのかなあ。
そう思っていた宝珠だったが、4日目に呂仁の顔を見て驚いた。どす黒い顔色だったのが、ほんのり頬にピンク色がさしているのだ。そして1週間を過ぎるころには、数分おきにしていたゴンゴンという響くような咳の音がぐっと軽くなった。吐血の量も少なくなっているようで、診療所の前の道に点々と付いていた血の跡も減っていった。
「これはいけるかもしれない……」
宝珠は、趙福以外のほかの養蜂業者にも生後21日目のオスの蜂の子をもらえるように頼み込んだ。「家族だけで使う秘薬だから」と最初はどこも冷たい反応だったが、何度も足を運び必死に必要性を訴える宝珠の姿に、「少しだけなら」と分けてくれる養蜂業者も出てきた。それを宝珠は患者に分け与えるのと同時に、自分でも試してみた。
※ ※ ※
蜂の子の効果は、宝珠の体にもてきめんに表れた。都会育ちの宝珠にとって、過酷な肉体労働は予想以上に体に負担を与えたのか、村に来て以来ひざに水がたまりパンパンに腫れていた。それでも1日中冷たい水田につかって作業をしたり、50キロもの荷物を天秤でかついで山の上まで何度も運ぶといった作業を休むことはできない。ひざの腫れは悪くなる一方で、曲げるたびに激痛が走った。鍼を打っても良くならず、薬を飲んでも痛みは消えず、「いつか歩けなくなったらどうしよう」という不安を常に抱えていた。蜂の子を試したのはそんな理由からだったが、始めて3?4日でひざを曲げるのが楽になり、10日もするころには腫れも痛みも完全に消えたのだ。
「趙福さん、これ、本当にすごいっ!」
ひざの痛みが消えたその夜、宝珠は嬉しさのあまり趙福に飛びつくようにして報告した。
「あんなにつらかったひざの痛みが消えたの!
それに患者さんからもすっごく感謝されたのよ。
自分の体験から関節痛にいいのかも、と思って何人かの患者さんにあげたの。
そしたら思った通り、すっかり痛みが消えたのよっ。」
「2週間くらい前に人民集会で糾弾されていたおばあさん、この間見たとき妙に元気そうになっていたけど、
あれも宝珠先生のお蔭かい?」
声をひそめて聞く趙福に、宝珠は大きくうなずいた。
「そうなの。あのおばあさん、文化大革命の前は地主だったでしょ。
だから昼に診療所に来る権利がなくて、夜にやって来たのよ。それも這うようにしてね」
「糾弾されたせい?」
「ううん、その前から耳鳴りやめまいがひどかったみたい。調べるとメニエール病だったの。
でもメニエール病に効くビタミン剤とかがなくて、ダメもとで残っていた蜂の子をあげたのよ」
「そしたら?」
「おとといの人民集会でおばあさんに会ったらスッスッと歩いてて、別人かと思っちゃった。
『めまい、どうですか?』って聞いたら、蜂の子食べて治ったんですって!
ねえ、でも不思議で仕方がないわ」
ひと呼吸ついて、宝珠は続けた。
「もう死ぬかもって半ば治るのをあきらめていた呂仁さんも、3カ月くらいで完全に肺病が治った。
だけど肺病は呼吸器科で診る病気よ。ひざ痛は整形外科、メニエール病は耳鼻咽喉科。
それぞれ診る科が違う。そしたら当然、薬だって違うものじゃないと効かないはず。
私はそうやって病院で学んだの。それなのに、蜂の子はあらゆる分野の病気に対応できるなんて、
説明がつかないわ」
趙福は笑いながら言った。
「宝珠先生、私たちは先祖代々伝えられているままに、蜂の子を秘薬として使っているだけだよ。
でも、実際に病気が蜂の子で治っているんだ。それでいいんじゃないかね。
病院の薬の威力は確かにすごいけど、それだけがすべてではないんじゃないかな」
西洋医学に基づいた治療法や薬だけが病気を治す手段ではない。蜂の子をきっかけに、宝珠は中国に昔から伝わる民間伝承薬に強い関心を抱くようになったのだった。
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