その昔、中国の寒村に、たった一人の医師として奮闘していた十八歳の少女がいた。
若々しい緑の苗が、見わたすかぎり一面に広がる小麦畑。
四川省の平野部でよく見られる早春の風景だ。このあたりには、小麦の苗と少しの竹林以外には、植物らしいものは何もなく、樹木すら、ほとんど見かけない。というのも、当時は食料になる植物以外の栽培は、一切禁止されていたからだった・・・。
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薪になるような木もなく、唯一の燃料は生産隊から配給される稲の藁だけ。都会育ちの宝珠は、石炭燃料を使い慣れていたため、配給されるわずかな藁など、あっという間に使い切ってしまった。おコメがあっても燃料が底をついて、何も調理ができない。診療所のとなりの、靴の修理屋さんからもらった焼き芋がひとつだけあったが、それも昨日食べてしまった。
夕暮れになり、周りのみんなが家に帰って行くと、この広い田んぼに囲まれた、寂しい土色の平屋で、宝珠はひとりきり、灯油ランプで小さな灯りをつけた。
「お腹空いたなあ。燃やすものさえあればなあ。」
空にキラキラ輝く星を眺めながら、宝珠がホツンとつぶやいたときだった。カサッという足音が聞こえて、宝珠は思わず立ち上がった。
「あっ、ごめんよ、先生。驚かしちゃった。オレだよ」
「建斌(ケンビン)さん?びっくりした!こんな時間に誰か来るって思わなかったから。どうしたの?どっか痛い?」
「すごく元気だよ。先生のお陰で、今年は大した病気もなく過ごせたしね。それより、さっ、手を出してみて!」
ソッと出した宝珠の両手に建斌が載せたのは、布で何重にもまかれた特大サイズのお茶わんだった。ズッシリと重く、そしてほんのりと温かい。蓋がわりにかぶせられた、同じ大きさの茶わんをどけると、卵で黄色に染まったご飯がたっぷり入っていた。
「先生のために持ってきたんだよ!さっ、冷めないうちに食べて。遠慮しないで、早く早く!」
ネギも生姜も入っていないが、この時代、卵だけでも、たいそうなごちそうだった。久しぶりのご飯の香に、宝珠はもう何も考えられなかった。この3日間、ほとんど何も食べていない。それでも労働の義務は宝珠を解放してくれなかった。ヘトヘトになって部屋に戻り、冷たい布団に入ると、あまりの空腹に死にたいほど絶望的な気分になった。そんなときに建斌がもって来てくれた炒飯だったのだ。
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食べ終えてようやく人心地ついた宝珠は、微笑みながらジッと見つめる建斌に気づき真っ赤になった。
「ごめん、ごめん。本当においしそうに食べるなあ、と思って。先生が『燃料がなくて困っている』って、姉ちゃんから聞いたからさ。俺、温かいうちに届けたくて走って持ってきたんだよ。」
ここまで1時間も走り、わざわざ炒飯を届けてくれた建斌の気持ちに、宝珠の心は温かくなった。
「ありがとう!こんなおいしいご飯、本当に久しぶり。でも、そんなに走って、足は大丈夫なの?」
「だって、ケガしてから随分経っているんだよ。見てよ。傷跡なんて全然残っていないだろ?」
建斌はズボンの裾をまくった。確かに、とても大怪我をした痕は全くなかった。
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ちょうど半年前、顔見知りの村人が息せき切って走ってきたのは、宝珠が毎日の義務である農作業をしていたときだった。
「先生、大変だ!建斌が鉈で足切っちまった!凄い血で、止まらないんだよ!」
季節は秋とはいえ、日中はまだまだ暑い。日陰などまったくない場所で朝から何時間も中腰で稲刈りをしていた宝珠は、立ち上がった途端、一瞬めまいがした。しかし、常に持ち歩いているカバンをつかみ、宝珠は駆け出した。建斌のいる場所は、遠くからでもすぐわかった。大きな人だかりができている。痛みのせいか声も出ない様子の建斌だったが、宝珠を見て、血の気の失せた真っ青な顔でかすかに微笑んだ。宝珠は、布で足を押さえている建斌の手をソッと離し、傷口を見た。真っ赤になった布からは血がしたたった。
「大丈夫よ!すぐ治るから安心して!」
励ますように建斌の耳元でささやくと、急いでカバンを肩から下ろした。中には毎朝必ず確認する医療用具が入っている。ピンセットで綿を取り出し、傷口の周囲をふいた。十分に生理食塩水を含んだ綿は、そこから染み出る生理食塩水と一緒に泥や砂、枯れ枝などを取り除いてくれる。大きな瓶に100個近く入っていたが、あっという間になくなった。
続いて、宝珠はアルコール消毒を始めた。相当に痛いはずだが、建斌は顔を時々しかめるものの、声を少しももらさない。建斌はまだ22歳。宝珠は、4歳年上の彼の我慢強さに、内心感心した。
「先生、そんなことより、そのへんの土集めて傷口にのっけた方がいいんじゃないですか?そうすりゃ血はすぐとまる」
様子を見ていた村人のひとりがそう怒鳴った。
「絶対駄目よ!土の中には雑菌がいっぱいなのよっ!」
怒鳴り返しながらも、宝珠の手は一瞬たりとも止まらない。農村に下放される前、大学病院の助手として医者にも負けない活躍をしていた宝珠だが、ここまでひどい怪我の外科的治療は久しぶりだった。しかし、一度身につけた「技術」はそう消えない。手際よく麻酔注射をし、10センチ近い傷を一針、一針、丁寧に、細かく縫っていった。宝珠が建斌のところに駆け付けてから2時間以上。人の輪は一向に小さくならず、むしろ増える一方だったが、だれもが初めて見る「縫う治療」に息をのんで凝視していた。ガーゼを当て、すべての治療が終わった。
「先生、それは布団縫うのと同じこと人間にもするんですかい?なんか先生、神様みたいだね」
1人の村人がボソッとつぶやいた。
それがきっかけに「建斌が布団になったよ」「うちの村の先生は本当にすごいね!」と村人たちが口々に話し出した。
一気に、にぎやかになった輪の中で、建斌がフッと息を吐くように小さく笑いながら、かすれた声で言った。
「ホント、あんたスゴイよ。先生、有難う。助かった」
建斌の回復は順調だった。縫い方によっては傷口に膿がたまることもあるが、そんなこともなく、1週間後には抜糸。糸を除いた傷口はきれいに塞がっていて、日常生活にもなんの支障のなかった。「李先生は神様みたい」というウワサは、あっという間に村中に広まっていた。当初は「村には昔から伝わっているやり方があるのだから」と宝珠に対して「壁」を作っていた人も、何かしらと相談を持ちかけてくるようになり、その秋から「とにかく宝珠先生に聞いてみなよ」というのが、村人たちの口癖になっていった。宝珠がクタクタになって診療所に戻ってくると、野菜や肉、灯油などが戸の前に置いてあることもしばしばだった。そして今日は、お腹をすかせて、ひもじい思いをしていた宝珠に、建斌がわざわざご飯を届けに来てくれた。
お腹がいっぱいになった宝珠は、建斌が持ってきてくれた茶碗を洗いながら、自分が温かい気持ちで満たされていくのを感じた。
温かいご飯を食べたのはもちろんだが、それ以上に、村人たちの優しさに、心打たれたからだった。そして、もっともっと村のみんなの役に立って、恩返しがしたいと思うのだった。さっきまでの寂しい気持ちは、もうどこかに消えてしまい、いつもの元気な笑顔が戻ってきていた。
「私、この村が大好き。この村のみんなが大好きだよ!」
・・・窓から見える月に、宝珠はそっと語りかけた・・・
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