その昔、中国の寒村にたった一人の医師として奮闘していた十八歳の少女がいた。
「赤脚医生」という言葉に憧れを抱くようになったのは、李宝珠が15歳頃のことだった。
「病院で働きながら医療知識を身に付け、医者がいない農村で医療活動を行う」
どんなに人の役に立つ仕事だろう。どんなにやりがいがある仕事だろう。自分もいつか、きっと。その思いが、宝珠の胸をどうしようもなく高ぶらせるのだった。
当時、文化大革命の影響で、学生生活は宝珠にとってまさに「灰色一色」だった。まともな授業はほとんど行われない。図書館も既に封鎖されてしまっていた。
「勉強がしたい。本が読みたい。知識欲を満たしたい」
いつもいつも、宝珠の頭の中はその気持ちでいっぱいだった。そんな宝珠を不憫に思ったのだろう。一緒に住んでいた祖母が一冊の本をそっと手渡してくれた。そしてそれは偶然にも、医学大全とも言える赤脚医生手帳だったのだ。
赤い表紙のその本は、たちまち宝珠をとりこにした。漠然とした憧れであった宝珠の気持ちを、確固たるものに変えるのは時間の問題だった。
「お父さん、お願いがあるの」
ある夜、宝珠は父親に切り出した。
「病院で何かお手伝いができないかしら。私、将来はお医者様になりたい。病気で苦しんでいる人を助けたいの。もちろん医大に行ければ一番いいけれど、でも、今はそれが難しいときだって分かるから。だけど病院で働いて経験を積めば、赤脚医生になるって道もあるでしょ。だから私、病院でお手伝いをしたいのよ。学校の勉強だってちゃんとするから。お父さんっ、お願いします!」
何といわれるかと不安に思いながら一気にそうまくしたてると、宝珠はあまりの緊張に座り込みそうになってしまった。ああ、どうかどうか、お父さんが許してくれますように……。
実際は数分のことだったのだろうが、父親が口を開くまで、長い時間が経ったように宝珠は思えた。
「知り合いに、とても頼れる女性がいる。彼女はウチの近くの大病院で看護婦長を務めているんだ。病院の仕事も、学校の勉強も、どちらも一生懸命やるって約束するなら、彼女に聞いてあげよう」
「ほんとにっ? 絶対私、がんばる。ありがとう、お父さん!」
そうして、宝珠は病院で働き始めた。中学校の授業が終わったら、その足で病院に向かう。両立は思っていた以上に大変だったが、「灰色一色」の生活が、何色にも輝く刺激ある生活に変わったように宝珠は思えた。
宝珠にとって幸運だったのは、父親の知人の看護婦長・方雅娟のもとで働けたことだった。
「あなたが宝珠ね。お父さんから聞いているわ。病院での仕事は覚えることがいっぱいよ。期待しているから、がんばってね」
最初に言われたのは、「床をきれいに掃除すること」。
「病院は清潔でなければダメ。徹底的にやってちょうだね」
宝珠は毎日毎日、床を磨くことに専念した。
1週間それを続けると、今度は医療道具の消毒作業を命じられた。それをマスターすると、今度は傷などの治療で使う綿玉作りを教わり、看護士たちが普段嫌がる仕事もすすんで行った。
「今日はいよいよ注射の仕方を教えるわね」
方雅娟からそう言われたとき、宝珠は頬が紅潮するのを感じた。
「心配しなくてもあなたなら大丈夫。これまで教えたことはどれも完璧にこなせているんだから、自信を持ちなさい。ただ、慎重にね。一歩間違えたら、患者さんの命にかかわることだから」
1人打てば注射器ごと代える今と違い、当時取り替えるのは注射針だけ。ズラリと並んだ患者さんを相手に、針をポンポンポンと手早く変え、どんどんと打っていく。正確さと、慎重さと、そして求められるのは手早さ。その日から宝珠は、1日300人近い患者さんに注射を打っていった。最初に注射を打ったときのことを、今でも宝珠は覚えている。手が震えそうになるのを患者さんに気取られないようにしながら、そおうっと針を皮膚に刺した瞬間を。ああ、うまくいった。そう思って顔を上げると、ジッと見守る方雅娟と目が合ったことを。
注射の打ち方を覚えると、古い傷の再消毒の方法、包帯の巻き方、点滴の仕方、新しい傷の処理方法、そして最後に縫合までできるようになった。
どんなことでも熱心に取り組み、砂が水を吸い込むように知識をどんどんと吸収していく宝珠を方雅娟はかわいがり、何でも教えてくれた。教え方は厳しかったが、宝珠は毎日が楽しくて仕方がなかった。家に帰っても、宝珠はその日教えてもらったことをノートにまとめ、頭の中でイメージトレーニングをした。時には、夕食に食べるためにと買ってきた豚肉の塊を使って傷を縫う練習をして、母親にこっぴどく怒られたこともあった。最初は「こんな子供に何ができるっていうのよ」と陰口をたたいていた看護士たちも、次第に宝珠を仲間の1人として認めるようになってきた。
こんなこともあった。宝珠が傷口を縫い包帯を巻いた患者が1週間後に来院すると、傷が化膿していた。
「あなた、ちゃんと教えたとおりに消毒した?」
患者が帰った後、方雅娟は厳しい顔つきで宝珠に言った。
「やったつもりじゃダメ! 1つ1つを確実にすることが大事だし、それが基本なの。ちょっと慣れてくるとどうしても気を抜いてしまうんだけど、それは失敗のもと。今回のことをステップにして、これからは気を付けてね」
1つ1つの手順を間違えていないか、患者さんに最も合ったものか、常に考えながら治療を行うことが、それ以降の宝珠の習慣になった。
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